長崎街道担当班で、現地調査しました。
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1.東構口跡
宿場の両方の入口にあり、長崎奉行・大名の宿泊時や非常時には、特に厳重に警備した。東構口跡は木屋瀬宿からの出入りを監視。
石碑は、宮町入口の角に建っている。昔は北・南の呼称を使用していたが、
現在は東口と呼んでいる。
2.問屋場跡
継ぎ所ともいい、次の宿場である木屋瀬と内野までの人足、馬、貨物の引継ぎを行い宿年寄、帳付け、馬役などがここに詰めていた。
町人の経営する町茶屋(宿泊施設)で、「長崎屋」と号をし、一般武士が宿泊していた。
4.住吉宮跡
寛政7年(1795)市橋小太夫が夢のお告げで、石像神体を川底から引き上げ、水神として祀ったと伝えられ、飯塚宿は陸上交通だけでなく川船の上下する水運の要地で、近くには船頭達がすんでいた。
代官、下代、大庄屋、庄屋など村役人の会議所で御茶屋(本陣)の管理、宿場の治安、大名の送迎などの事務を取り扱った。
6.恵比寿石跡
宿場の繁栄を願って、通りの中央に、七福神の中の一人「恵比寿様」の石像を安置し、人々に信仰された。
参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち、先触(さきぶれ)・ひげ奴・金紋・槍持ちなどの隊列を整えたところ。
8.明正寺
浄土真宗本願寺派で、寺の過去帳に、享保14年(1729)3月に八代将軍吉宗に献上された象が通った記録がある。
上茶屋・本陣ともいい、福岡藩主の別館であり代官が管理していた。寛永17年(1640)、二代藩主黒田忠之の時にこの場所に設けられ、長崎奉行や参勤交代の大名が宿泊した。
10.白水橋
今は緑道公園になっている飯塚川も、その水源は、内野の山中を発し、水運の便も良く、陸路と水路の立体交差点として繁栄した。
宝永3年(1706)ここで元大神(もとおおかみ)と刻まれた光る石が発見され、大神石と呼び祠を建てて祀ったが、明治42年、曩祖八幡宮に移され、祠の跡に井戸を掘り、その水で神に捧げる酒を造った。
12.西構口跡
東徳前に位置し、南口の呼称で呼ばれ、内野宿方面から出入りする旅人を監視していた。
現在は西口と呼ばれている。