筑豊遺産のアーカイブ

カテゴリ : 英彦山

修験道と山伏

英彦山(彦山)は大峰山・羽黒山・とともに
日本三大修験道
霊山です。

修験道は 日本古来の「神道」に「仏教」、「陰陽道」や
山岳の自然に気を感知する「道教」などを習合した
日本特有の精神文化です。

山伏
修験者・験者・行者ともいわれ修験する人で、平安時代から人々の心を捉えてきました。

山伏の修行は,山岳に分け入り,擬死再生の厳しい修行を重ね、
心身を鍛えて験力を獲得し、
自分自身を心気一新し
人々の願望に応え

多くの人々が帰依しました。

豊前国は九州で古代寺院が多く
修験霊山も多い。

そして
宇佐神宮と彦山の結びつきにより、一大宗教文化圏を築き

彦山は豊前修験の中心地であった。

その行場は、山内外に散在する「彦山四十九窟」といわれ、
弥勒浄土の曼荼羅を地上に示現させた。

現在も京築地区には、文化の中に修験の要素を感じさせるものが多く残され
求菩提山麓の地域で伝承される神楽には、
修験の影響を強く受けたものがあります。

青銅製の大鳥居は高さ6.9m,柱周り3.0m。

 寛永14(1637)年
肥前藩主鍋島勝茂公により寄進されました。

鳥居に掲げられている「英彦山」という額は享保19(1734)年に
霊元法皇より御下賜されたもの。

このときから彦山は英の一字を加えて「英彦山」と書くようになり
読み方は「ひこさん」。

この大額は,いまでは英彦山の象徴であり,銅鳥居は英彦山の表玄関です。

銅鳥居より奉幣殿まで約1kmはの石畳は「桜の馬場」と呼ばれ,
春には山桜の並木が満開となる。
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国英彦山神宮奉幣殿は指定重要文化財

修験道時代の霊仙寺の大講堂(旧英彦山霊仙寺大講堂)で
天平12(740)年建立。
千鳥破風入母屋造りで建坪104坪 様々な祭儀の舞台となる山の中心的建物。

中世には2階建て7間規模の大堂であったが,永禄11年(1568)年,戦乱により消失。

現在の社殿は江戸初期元和2(1616)年
小倉藩主細川忠興公の寄進によって再建。

和洋建築で、一部には唐様手法も取り入れられている。
江戸初期の建築なのに、桃山風の部分も見られ

大きな木割と規模の広壮さ、細部に装飾が無く豪壮な感じを受ける。

毎年3月25日は、奉幣殿前の境内で豊作を祈って御田祭り(おんた)が行なわれる。

お手水所の横に懸けられている大梵鐘(県指定文化財)は文禄3(1594)年,
岩石城主毛利久八郎の寄進。鐘突き棒がなく、小槌で打つ方式。

近世  修験の山の歴史が閉じられた
英彦山は天忍穂耳を祀るほか一山を統括する座主も皇統を引いており、
幕末には 尊皇攘夷への機運が高まり

幕末動乱で
多くの山伏が命を落とし

廃仏毀釈で
明治政府は修験宗を禁じた為
多くの山伏は檀家などを頼って離山し、僧侶、神職として新たな道を歩み

座主教有公は僧籍を返上し、英彦山神社代宮司となり

修験の山の歴史を閉じられ

英彦山信仰は終わりを告げた。

英彦山は
文化財
の宝庫です。

国指定重要文化財は
英彦山神宮奉幣殿
銅鳥居(かねのとりい)

金銅製如来立像(鋳造)

福岡県民俗文化財は
財蔵坊(ざいぞうぼう)
その他
英彦山大権現絵巻(幣切神事)
山招魂社
豪潮(ごうちょう)律師勧進帳大形宝筐印塔(ほうきょういんとう)
長梅外私塾「心遠処塾」跡
勤皇義僧の碑
などなど

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