筑豊遺産のアーカイブ

カテゴリ : 遠賀川

福岡県中央部を流れる筑前と豊前を繋ぐ川

遠賀川は、福岡県嘉麻市の
馬見山を源流とし、穂波川、彦山川、犬鳴川、西川など大小74の支川を合わせて、芦屋町において響灘に注ぐ、幹川流路延長61km、流域面積1,026km2の一級河川です。

幹川流路延長はそれほど長くありませんが、その流域には田川市、
飯塚市、直方市をはじめとする7市14町1村(注1)を含み、
九州十大河川の中でも流域内人口が多く、その人口密度は653人/km2とダントツの
1位です。

弥生時代には、遠賀川式土器(注2)と呼ばれる水田稲作文化の伝播の指標となる土器を出土し、
遠賀川流域が水田稲作の渡来地の一つであるだけでなく、弥生文化の発信地でもあったことを示しています。

平安時代から中世、近世を通して川ヒラタによる年貢輸送を中心とした遠賀川の水運は、明治時代、日本の近代化を支えた筑豊炭田の石炭輸送にも大きな役割を果たすことになります。


このように、先史時代から人間と深いつながりを持つ遠賀川には人手がよく入り、自然堤防がほとんど殆ど残されていないこと、流域が一つの文化圏としてまとまりをもっていることが大きな特徴です。
九州の1級河川
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近世のブランド米「筑紫米」(「筑前米」)

貝原益軒編『筑前國続風土記』(巻之三十 土産考下 穀類 稲)に、

「筑紫米、いにしへより名産とす。就中肥後、筑前の米を佳品とす。飯として香甜也。
酒に醸して味あつし。國中最上座、夜須を佳品とす。
(後略)」とあり、

江戸時代においても「筑紫米」、中でも「筑前米」の評判が高かったことがわかります。
江戸時代,全国の米が大阪に集められ,諸藩の蔵屋敷に米が納められたのち米切手(証明書)が発行され
切手による取引が行われました(堂島「米会所」)。

秋月藩は夜須郡に加え、嘉麻郡内の碓井と千手一帯を所領としていました。
碓井や千手の米は勿論、主要な領地である夜須郡からの米も新八丁峠、あるいは白坂峠を越えて、
上才田の中島(橋)の蔵屋敷を経て、八反田の蔵屋敷の舟入場から積み出され、
黒崎を経由して大阪の蔵屋敷に送られていました。
すなわち、『筑前國続風土記』に「夜須を佳品とす」とある「夜須の米」は
遠賀川水運を利用して運ばれた、秋月藩の米と考えて良いのではないでしょうか?

遠賀川上流域や夜須郡のような、昼暑く、夜涼しい土地の米が美味しいことは現在でもよく知られています。
なお、
遠賀川流域が穀倉地帯であったことは、「筑前国旧租要略」(1600年)や
「筑前国天保郷帳」(1834年)に、筑前15郡の石高に対する、
遠賀川流域4郡(遠賀郡・鞍手郡・穂波郡・嘉麻郡)の石高がそれぞれ30.2%、31.3% 
を占めていたことからも明らかです。

筑豊遺産として、中世の年貢米搬送を偲ぶ遺産は少ない。
①嘉麻市の碓井郷土館の『東大寺文書』(レプリカ)、
上臼井と下臼井の日吉神社(鏡山猛氏の『筑前碓井条里復元考』に、
「上臼井町役場裏の日吉神社境内では、石包丁破片と土師器小片を採集することができた。
土師器は小残片であったが、多量散在していた。
平安前期のものと思われたが小片のためそれが日常生活の容器であったか、祭器であったかは明らかでない。
何れにしても弥生時代以降にこの付近に住居が営まれていたことは間違いあるまい。
神社が日吉であることは、観世音寺の本寺が日吉神社である点を考え合わせ、
あるいは古い観世音寺封田時代に勧請された名残かとも思われた。」とあります。
「碓井町誌」から引用)、
③宮若市福丸の日吉神社
近世の筑豊遺産は、
④八反田の舟入場跡と石碑、
⑤久保田石井手(石造りの堰)と八反田までの堀切(人工の水路:宮田堀川)、
⑥八反田・川のぼりイカダレース大会
(八反田船入り場には江戸時代、秋月藩の米蔵があり、川?で年貢米を運び、
帰り船にお土産を乗せて川をのぼってきた当時を偲ぶイベント)
飯塚川島(福岡藩嘉麻郡の船場)に残された川ひらた船頭集落の>街並み、
水防遺構および、水運安全祈願の神社(川島八幡宮、志賀宮、須賀宮、天満宮、宮地嶽神社)等、
飯塚曩祖八幡宮前広場と舫石
⑨飯塚幸袋(福岡藩穂波郡の船場)の許斐神社 
⑩木屋瀬宿の船庄屋跡、等があります。

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