カテゴリ: 長崎街道

長崎街道 飯塚宿(宮町~小竹町


曩祖八幡宮(宮町 ⑤まで)

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飯塚という地名の発祥の地ともいわれている。境内に寛永十七年庚辰の年号刻む

鳥居があり、郷土の一大聖地「納租の社」と呼ばれている。

  博奕改役 小林文吉狛犬対

曩祖八幡宮の東の鳥居の傍らに一対の狛犬がある。博奕改役はバクチを取り

締まる役職で、小林文吉は幕末から明治維新を生きた人物である。

  宝月楼(宮町)

日本近代短歌の開拓者として高く評価された大隈言道を飯塚に招き、指導

を受けた。言道の弟子で勤皇家でもあった野村望東尼も飯塚の歌人と交友

を深めた。宝月楼は言道の弟子であった古川直道の別荘。

④ 舫 石                             

遠賀川水運の拠点だった飯塚川を上下していた川船(川ひらた)を、つなぎ

止めていた石の柱。平成12年飯塚市の有形民俗文化財に指定された。

⑤ オランダ屋敷      

長崎から江戸へ向かったオランダの医師や商人が宿泊した場所とされている。

    シーボルトも江戸参府紀行の中に記載している。

 松風山 竹園寺 (片島

    屋根瓦に徳川家葵の紋がある。秘仏として木彫りの小仏像が二体ある。一体の

裏面に天保三年の銘があり、もう一体は善光寺仏とされている。

⑦ 許斐神社(幸袋 ⑧まで)

     地方の古社として古来藩主及び郡中の庄屋保正等の尊崇篤い。

     高さ30m程小高い丘に許斐神社がある。ここが戦国時代の許斐城である。

東の遠賀川は天然の堀であり、城の周囲は 急斜面であり要害の地であった。

⑧ 旧伊藤伝右衛門邸

   旧長崎街道に面して敷地を構え高塀を築く。当邸は建築的価値等、重要な文化

   遺産である。又、庭園は国の名勝に指定された。

⑨ 郡境石(小竹町 ⑩まで)

     小竹町と穂波端(現飯塚市目尾)が隣接する場所。

     小竹の町筋は、ここから始まり現役場付近まで続いている。

  御小休所処(現 龍徳屋酒店)

     薩摩藩の小休み処とした。のち肥前鍋島藩などもこれにならった。

     龍徳屋に鍋島藩主から賜った屏風がある。


     

     


   

 

 

長崎街道 無題 文責:小林
今からおおよそ四百年前 江戸時代になると幕府は、江戸を中心に五街道を整備し、さらに脇街道い宿場を設け、交通網をととのえた。


なかでも脇街道の一つ
長崎街道は、鎖国体制を敷いていた
日本のなかで、唯一の
外国との窓口であった
長崎と小倉を結び、異国文化を江戸へ伝える重要な街道であった。


長崎街道は、長崎から小倉まで約五十七里、
宿場町が二十五ヶ所あった。なかでも犬変な賑わいをみせていた筑前には、
筑前六宿と呼ばれた
黒崎・本屋瀬・飯塚内野・山家・原田の六つの宿場町があり、
そのほぼ中心に位置する飯塚市には、この中の二つの宿場町、

内野宿飯塚宿があった。


 筑前六宿の歴史・文化を紐解くにあたり、

飯塚宿内野宿に絞って、地域に結びついた神社・仏閣・祭り・食

文化などで、まだ知られていないものを掘起すことが出来ればと
取組んでいます。

 長崎街道担当班で、現地調査しました。飯塚宿



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1.東構口跡

101宿場の両方の入口にあり、長崎奉行・大名の宿泊時や非常時には、特に厳重に警備した。東構口跡は木屋瀬宿からの出入りを監視。
石碑は、宮町入口の角に建っている。昔は北・南の呼称を使用していたが、
現在は東口と呼んでいる。  





2.問屋場跡102

継ぎ所ともいい、次の宿場である木屋瀬と内野までの人足、馬、貨物の引継ぎを行い宿年寄、帳付け、馬役などがここに詰めていた。








3.中茶屋跡(脇本陣)109

町人の経営する町茶屋(宿泊施設)で、「長崎屋」と号をし、一般武士が宿泊していた。  






4.住吉宮跡074

寛政7年(1795)市橋小太夫が夢のお告げで、石像神体を川底から引き上げ、水神として祀ったと伝えられ、飯塚宿は陸上交通だけでなく川船の上下する水運の要地で、近くには船頭達がすんでいた。








5.郡屋跡076

代官、下代、大庄屋、庄屋など村役人の会議所で御茶屋(本陣)の管理、宿場の治安、大名の送迎などの事務を取り扱った。  








6.恵比寿石跡078

宿場の繁栄を願って、通りの中央に、七福神の中の一人「恵比寿様」の石像を安置し、人々に信仰された。





7.勢屯り跡079

参勤交代の大名が宿泊した際、出発に先立ち、先触(さきぶれ)・ひげ奴・金紋・槍持ちなどの隊列を整えたところ。  









8.明正寺048

浄土真宗本願寺派で、寺の過去帳に、享保14年(1729)3月に八代将軍吉宗に献上された象が通った記録がある。







9.御茶屋跡081

上茶屋・本陣ともいい、福岡藩主の別館であり代官が管理していた。寛永17年(1640)、二代藩主黒田忠之の時にこの場所に設けられ、長崎奉行や参勤交代の大名が宿泊した。  






10.白水橋085

今は緑道公園になっている飯塚川も、その水源は、内野の山中を発し、水運の便も良く、陸路と水路の立体交差点として繁栄した。







11.大神宮090

宝永3年(1706)ここで元大神(もとおおかみ)と刻まれた光る石が発見され、大神石と呼び祠を建てて祀ったが、明治42年、曩祖八幡宮に移され、祠の跡に井戸を掘り、その水で神に捧げる酒を造った。
 



12.西構口跡092

東徳前に位置し、南口の呼称で呼ばれ、内野宿方面から出入りする旅人を監視していた。
現在は西口と呼ばれている。


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